Patti LaBelle本名:Patricia Louise Holte 1944年5月24日、フィラデルフィア(Philadelphia)のエルムウッド(Elmwood)で、父ヘンリー・ホルト・ジュニア(Henry Holte Jr.)と母バーサ(Bertha)の間に生まれる。 5人きょうだい(男1人、女4人)の4番目。長兄トーマス(Thomas)と長姉ビビアン(Vivian)は母バーサの前夫との間にできた子である。ふたつ上の姉がバーバラ(Barbara)、ひとつ下の妹はジャッキー(Jackie)。
幼い頃から地元のバプテスト教会(Beulah Baptist Church)のクワイヤー(聖歌隊)に参加し、1960年(16歳)に友人シンディー・バードソング(Cynthia "Cindy" Birdsong)とコーラスグループ"オーデッツ"(Ordettes)を結成。翌年、ノーナ・ヘンドリックス(Wynona "Nona" Hendryx)とサラ・ダッシュ(Sarah Dash)のグループ "ザ・デル・カプリス"(The Del Capris)と、同じクラブに出演したことをきっかけに合流し、ザ・ブルーベルズ(The Blue Belles)を結成。 1962年、ニュータウン・レコード(Newtown)からのデビュー曲"アイ・ソールド・マイ・ハート・トゥー・ザ・ジャンクマン"(I Sold My Heart to the Junkman)がR&Bチャートの13位、ナショナル・チャートでは15位を記録。しかしこの曲、名義上は彼女等の曲であるが、実際にヒットしたバージョンを録音したのはシカゴの"ザ・スターレッツ"(The Starlets)のマキシン・エドワーズ(Maxine Edwards)がPattiのモノマネで歌ったものなのであった。ザ・ブルーベルズのプロデユーサー、ハロルド・B・ロビンソン(Harold B Robinson)は、ザ・スターレッツのプロデューサーのフィル・テリー(Phil Terry)に訴えられている。本物のザ・ブルーベルズ・バージョンのリード・ボーカルはサラ・ダッシュとクレジットされ、このレコードはザ・ブルーベルズの名前で別の歌声の、2つのバージョンが存在することになる。
その後パークウェイ(Parkway)を経て、1965年にアトランティック・レコード(Atlantic)に移籍し、グループ名を"パティ・ラベル・アンド・ザ・ブルーベルズ"(Patti LaBelle and the Bluebelles)と改める。この頃、ウィルソン・ピケット(Wilson Pickett)のレコードのバック・コーラスを務めたり、ニューヨークのアポロ・シアター(Apollo Theater)にディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)やグラディス・ナイト(Gladys Knight)、スプリームス(Supremes)等とともに頻繁に出演。 週6日、1日4ステージの合間に摂る食事は、照明の電球に乗せて温めたホット・ドッグやフライドチキン。ホット・ドッグの汁でいくつも電球を破裂させたという。バックステージではスモーキー・ロビンソン(Smokey Robinson)やマービン・ゲイ(Marvin Gaye)、チャック・ジャクソン(Chuck Jackson)等に混ざり、賭けカード・ゲームに興じる。地下室でジャッキー・ウィルソン(Jackie Wilson)にレイプされそうになった事件は、今や有名な話。 1967年、シンディー・バードソングはフローレンス・バラード(Florence Ballard)の脱退によって穴の空いたスプリームスから白羽の矢を立てられ、こっそり逃げるようにグループを移籍。それは言うまでもなくパティー達にはかなりショックな出来事であり、後にシンディーがパティの所に謝りに来たのは、1年も経ってからだという。 トリオになったパティ・ラベル・アンド・ザ・ブルーベルズは、1970年にグループ名を単に"ラベル"(Labelle)とし、イギリスのプロデューサー、ヴィッキー・ウィッカム(Vicki Wickham)によってテレビ番組"レディー・ステディー・ゴー!"(Ready, Steady, Go!)に出演。その女性プロデユーサー兼マネージャーの手によって、よりファンキーな路線に。
1971年にはワーナー・ブラザーズ(Warner Brothers)に移籍、またコロンビア(columbia)からローラ・ニーロ(Laura Nyro)とコラボレイトしたアルバム、"ゴナ・テイク・ア・ミラクル"(Gonna Take a Miracle)を発売。RCAを経てエピック(Epic)に移籍した1974年、プロデューサー、アラン・トゥーサン(Allen Toussaint)によって全米1位を獲得した大ヒット曲、レディー・マーマレード(Lady Marmalade)を含むアルバム"ナイトバード"(Nightbirds)が誕生し、未来のコスチュームをイメージしたステージ衣装を身にまとって歌うLabelleの名は、一躍世界中に知れ渡った。 そしてアフリカン・アメリカンのボーカル・グループでは初めて、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ(New York's Metropolitan Opera House)でのライブを行うことになる。
その後ラベルは2枚のアルバムを録音して1977年に解散、それぞれソロ活動を開始。パティはエピックに残り、初のソロ・アルバム"パティ・ラベル"(Patti LaBelle)を発表。80年代前半、彼女がソロになるのを待っていたかのように、多くの有名アーティストや映画のサウンド・トラックからコラボレイト申し出の声がかかる。サックス奏者のグローバー・ワシントン・ジュニア(Grover Washington, Jr.)と録音した"ザ・ベスト・イズ・イェット・トゥー・カム"(The Best Is Yet to Come)、ボビー・ウーマック(Bobby Womack)とコラボレイトしたアルバム"ザ・ポーエットU"(The Poet II)の"ラブ・ハズ・ファイナリー・カム・アット・ラスト"(Love Has Finally Come at Last)等はシングル・リリースもされた。"ザ・ベスト・イズ・イェット・トゥー・カム"は、彼女にとって初めてのグラミー賞ノミネート作品でもある。 映画"ビバリー・ヒルズ・コップ"(Beverly Hills Cop)のサントラからは"ニュー・アティテュード"(New Attitude)と"ステア・イット・アップ"(Stir It Up)も大ヒットし、2度目のグラミー賞ノミネートを。続いて83年にフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)から発表したR&Bチャート1の"イフ・オンリー・ユー・ニュー"(If Only You Knew)を含むアルバム"アイム・イン・ラブ・アゲイン(邦題:愛ふたたび)"(I'm in Love Again)、さらに85年にはナショナル・チャート1位を獲得した"オン・マイ・オウン"(On My Own)の収録されたMCA移籍第一弾アルバム、名盤"ウィナー・イン・ユー"(Winner in You)等で、人気は不動のものに。 映画にも女優として精力的に出演し、84年の"ソルジャー・ストーリー"(A Soldier's Story)では酒場の女将に扮し、劇中素晴らしいブルースを披露。89年の"シング"(Sing)でもアクターズ・アカデミーの教師として"トータル・コンセントレーション"(Total Concentration)を熱唱。 Pattiのその秀でた"スゴイ熱唱ぶり"と"常に全力で臨む姿勢"は、時としてバッシングの標的になることもあった。余談だが、こんな話がある。85年のNBCテレビ・スペシャル"モータウン・リターンズ・トゥー・ジ・アポロ"(Motown Returns to the Apollo)では、ジョー・コッカー(Joe Cocker)とのデュエット"ユー・アー・ソー・ビューティフル"(You Are So Beautiful)を、そのボリュームとパフォーマンスで彼をやっつけるかの如く独断場のものにしてしまい、さらにトリで出てきたダイアナ・ロスが"アイ・ウォント・トゥー・ノウ・ホワット・ラブ・イズ"(I Want to Know What Love Is)を歌いながら"誰か手伝って(参加して)"と言ったところに、すぐさまそのヘルプを買って出たPattiの方が観客からスタンディング・オベーションを受けてしまった。批評誌には"ダイアナは持ち場を奪われそうになり、あわててマイクを取り返した"などと書かれ、Pattiは深く傷つく。その後の"ライブ・エイド"(Live Aid)のフィナーレで演奏された"ウィー・アー・ザ・ワールド"でも彼女の圧倒的な歌唱は同様の批評をされ、"前に出たがる女"のレッテルを貼られる。 また、ケーブル・エース・アワード(Cable Ace Award)を受賞したHBOテレビ・スペシャル、"シスター・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ"(Sister in the Name Of Love)では、旧友グラディス・ナイトとディオンヌ・ワーウィックと共演。そこで親友であるディオンヌから「今回は少しトーンダウンしてほしい」と言われてしまい、過去のバッシングも頭をよぎったのか、Pattiは"いいわよ"と答えながらも、独りで楽屋に駆け込んで泣いたのだった。 その後、別のスペシャル・プログラムのリハーサルでも、人前でディオンヌに同様の事を言われた彼女は、今度は黙っていなかった。"もし私の声が他の人より大きいとしても、それは私の問題ではないわ。いつでもみんなのために心の底から100%の力でPattiとして歌うだけ。私はこれで成功してきたのだし、観客もそれを望んでいるはず。どうしてそれを抑えなくてはならないの?"・・・その言葉の通り、どんな場面でも、彼女は全力投球の姿勢を崩さない。 Pattiの声は確かにデカくて、歌の表現のみならずファッションまでも、かなり濃くディープである。しかしそれが今日多くのファンの心をとらえ、支持されている歌手"Patti LaBelle"そのものなのである。 91年にはグラディス・ナイトのソロ・アルバム"グッド・ウーマン"(Good Woman)のゲストとして、ディオンヌも交えて録音した"スーパーウーマン"(Superwoman)がグラミー賞にノミネートされた。この旧知の2人とは、ソウルトレイン・ミュージック・アワードの司会も一緒に勤めるなど、現在でも親交は深い。
90年代の大活躍を通して、Pattiはアメリカを代表する歌手の地位を確固たるものにした。特に第34回グラミー賞の最優秀最優秀女性R&Bボーカル・パフォーマンスを受賞した"バーニン"(Burnin')は幅広い年齢層に支持され、当時50歳も目前の彼女が歌う曲で、世界中の若者達が踊った。 彼女は2004年に還暦を迎えたが、年齢を重ねるごとに表現にも円熟味が増し、しかも声にますます磨きがかかっているということは奇跡的である。 "年齢を増すごとにノドが強くなるの。神様の祝福ね。" ライブ・パフォーマンスにめっぽう強いPattiの今後は、ますます楽しみである。 長年連れ添ったアームステッド・エドワーズ(Armstead Edwards)とは2000年2月に離婚。 数少ない仕事のオフには、フィラデルフィアの自宅で料理、買い物、洗濯をする。 "私は他の誰とも違う訳ではないわ。ただレコードを出してるだけ・・・。" そのレコードがタダモノでないのだ。 |